病気の症例
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☆円錐角膜の体験談をこちらで募集しています。

  30:ozzさん

【年齢 :26歳、職業:薬剤師、性別:男性、住所:北海道】

私は物がかすんで見えたり、2重に見えたりするので、コンタクトレンズを作ってもらおうと思い眼科にいきました。そこで円錐角膜と診断され、はじめてこの病気の名前を知りました。角膜移植をしないと治らないというのを聞いた時は、物凄いショックでした。しかし今は角膜移植が必要と思われる程、症状が酷くないと医師は言うのですが、コンタクトレンズを使っても視力が出ません。

でも仕事で目を物凄く使わなければならない毎日。右と左の視力の差が大きくて、具合が悪くなります。もういい加減嫌になっています。医師に「今は手術が必要だと思えない」と言われた時はさらにショックでした。今現在、頭痛、めまい、肩こり、疲れ目を我慢しながら過ごしています。物もかすんだり2つに見えてます。仕事にもかなり支障があります。

【送信日時 2002年04月17日】


  29:kanさん

【年齢 :19歳、職業:大学生、性別:男性、住所:東京都】

僕の目が悪くなりだしたのは、確か中学の2、3年でした。その時はただ視力が下がっただけだろうと思い、放っておきました。高校に入り健康診断で、片目だけこんなに視力が低いのは絶対おかしいと言われ、病院に行ったら円錐角膜でした。ちなみにこの時はまだ地元の長野にいて、大学で東京に行きました。右目の視力は0.01以下。

もう末期で、角膜は横からみて出ているのが分かるくらいです。右目はほとんど見えません。コンタクトを着け、これ以上の進行を抑えここまでやってきています。今は円錐角膜の専門の外来科がある東京医科歯科に定期的に通っています。手術の一歩手前だとか言われ、更に左眼まで円錐角膜の可能性が出ています。

でも左の視力がいいので生活には別に困っていません。これ以上悪くなったら悪くなったで考えます。この病気で悩んだりはまったくしてません。でもこのサイトを見ると僕は楽観的過ぎるの?って思いました。どうしようと考え暗くなる前に、どんどん考えなきゃいけない事がでてきたり、やりたい事が常に沢山でてきて、あまり悩んだりしていません。

目が良い人に比べ自分は劣っているという感情もありません。今思いついたけど個性として考えるとか?劣っていれば違う所で優れているって考えれば、落ち込む事もなくなるとか?もし僕の片目が失明したら、独眼流伊達政宗みたいに刀の鍔で眼帯したら、ある意味格好良いかもしんない。こんなのが参考になるかわかりませんけど僕の場合はこんなです。

【送信日時 2002年04月17日】


  28:ゆき猫さん

【年齢 :47歳、職業:主婦、性別:女性、住所:神奈川県】

私は20才頃からHCLをして、35才頃からHCLがポロポロ落ちるようになり、東京池袋の眼科で、京都府立医大を紹介されました。今は亡くなった、円錐角膜の権威の糸井先生に、「熱形成」という手術を受けました。それから現在までの12年間、神奈川から年に数回は新幹線で京都まで行っています。

円錐角膜の人はメガネは無理といわれていますが、コンタクトはきっと合うのがあると思います。かなり円錐角膜が進行している私ですら、1日12時間コンタクトをしていられますから。

【送信日時 2002年04月04日】


  27:kokoさん

【年齢 :40歳、職業:派遣社員、性別:女性、住所:京都府】

私の息子も去年、円錐角膜と診断されました。小学5年生でした。半年くらいの間に急激に視力が下がり、乱視もでていました。最初に行った近所の眼科で、「円錐角膜という病気に似ている」と言われ、気になるので神戸の大きな総合病院へ行きました。そこでの診断は円錐角膜に間違いないという事で、本人の目の前で「いずれは失明します」と断言されました。

わずか11歳の息子の目の前で…。あの日の事を私は一生忘れないと思います。どうして私だけに話してくれないのかと強い憤りを感じました。その後、知人から阪大病院を紹介され、今はそちらでお世話になっています。そちらではじめて「失明はしない」と聞き本当に嬉しかったです。

またその後、他院で知り合ったお医者さんが、自分も円錐角膜ですと話して下さり、「この病気大変だけど、何もハンディに思う事はないんだよ」と、自分の体験を話して下さいました。おなじ医者という職についておられる方から地獄に落とされ、また救って頂いた気がします。発症が早かったので進行が心配ですが、前向きに頑張りたいと思います。

【送信日時 2002年04月02日】


  26:みんみんさん

【年齢 :24歳、職業:家事手伝い、性別:女性、住所:奈良県】

はじめまして。私は4年程前から、だんだん目が見えにくくなり、当時は簡単に考えてしまい病院にも行きませんでした。もっと悪くなるようであれば、その時はメガネやコンタクトを作ろうと考えていました。そして半年位が経ち、やっぱり見えにくいのでメガネ屋さんに行きました。そしたらお店の機械では測定が出来きず、病院で診察して下さいっと言われました。数日後、神奈川県の眼科に行きました。

そこではじめて、円錐角膜の診断を受けたのです。そこで角膜移植をすれば視力が回復する可能性はありますよーっと聞きました。ここの病院はモスクワとの交流が盛んみたいで、手術を勧めて頂いたのですが、なかなか決心がつかず悩んでいます。2人に1人位の割合で拒絶反応が起こると聞いたら、怖くて不安です。

【送信日時 2002年03月22日】


  25:くみこさん

【年齢 :24歳、職業:ホテル業、性別:女性、住所:大阪府】

中学生の時に近所の眼科で検診を受けた時、何の異状もなく一生眼鏡をかけなくても大丈夫でしょうと、お墨付きを頂いたんですが、高校1年の時、一番後ろの席から黒板の字が見えずらくなり、検診を受けたところ、左目が円錐角膜で右目もその兆候があると診断されました。コンタクトレンズでないと矯正が難しいと言われコンタクトを購入し、以来レンズを着けての生活が始まりました。

矯正後も両目1.0以上あり、何の問題もなかったのですが、昨年くらいからコンタクトが目に合わなくなってきて、眼鏡を購入しました。とはいっても眼鏡での矯正はある程度までしかできず、苦しい生活です。仕事上ホテルのフロントでは、眼鏡は数字の見間違いなどで仕事に支障をきたしてしまい、コンタクトと眼鏡半々の毎日です。

最近ショックな事に、ある保険会社に入院保険を申し込みをしたところ、円錐角膜の私には見合わせて頂きますとの返事がきました。特殊な病気ではあるけれど、目が悪いという他の人と同じようなものだと思っていたのでかなりショックです。この病気はそんなに深刻な問題を抱えているのでしょうか。なんだか将来がものすごく心配になってきました。

【送信日時 2002年03月11日】


  24:あいぼんさん

【年齢 :28歳、職業:自営業、性別:男性、住所:東京都】

私がこの病気を知ったのは高校3年生の時で、当時自動車の運転免許を取得しようと思い、視力が足りなそうだったので眼鏡を作りに眼科へ行ったのがきっかけでした。思えば生まれた時から眼球振動症という病気を持ち合わせていた私は、小学校の高学年の頃から、物が多少だぶって見えていたのですが、眼鏡をするのが嫌で高校3年になるまで視力0.3から0.5くらいで頑張っていました。

最初にお医者さんに行った時に、眼鏡の処方箋を出してくださいと言ったのですが、あなたの目は特殊なので眼鏡では矯正できませんと言われ、その時にはじめて円錐角膜という病名を知りました。確かに眼鏡をかけてみてもほとんど見えるようにはならず、仕方なくHCLを作りました。元々、医者が嫌いな私は、幸いにも病気の症状がそれほど重くないという診断を受け、以後2、3年に1回のペースでしかCLを作っていません。

今のところ1日に10時間から13時間程CLを装着して、2ヶ月くらい休みなく着けていると、さすがに左目が痛くてしょうがなくなります。今回もその状況に陥り、ふと円錐角膜の事がきになってこのサイトにたどり着きました。ここでこんなに多くの人が同じ病気で悩んだりしていることを知り、とても勇気づけられました。

私ももう少し病気の事を理解して、これからも上手に自分の目と付き合っていこうと思います。みなさん、頑張りましょう!

【送信日時 2002年03月08日】


  23:匿名さん

【年齢 :35歳、職業:自営業、性別:女性、住所:東京都】

大学生の時、発病が分かりました。東大病院で角膜移植と言われ、私より母がショックを受けていました。私としては不便だなーとか、痛いなーくらいで今日まで来ています。台風の前後に痛くなったり、風邪を引く前に調子が悪くなったりするので、自己管理に役立てています。余程調子が悪くならないと眼科にも行きません。

本来なら定期的に検査し、通院した方がいいのですが、あんまり気にしないで暮らしています。眼鏡が使えないし、弱視状態だからサングラスが欠かせないし、眉間のシワが深いし、視力も出ないから誤解されるし、あんまり得はしないけど、健康のバロメーターとしては優秀ですよ。私以外の人も大変なんだと知って少し安心したけど、上手につき合えば死ぬ病じゃないし、私達が不便なだけだから。

みんなでがんばりましょう!周囲は心配とか不安とか色々心痛している事だから本人達がしっかりしないとね。私はレインボーコンタクトを15年程使用しています。生命保険にも入れなかったし、えぇ?と驚愕する事はありますが、元気に暮らしましょう。体のどこかが悪い人なんて一杯いるもんね。

【送信日時 2002年02月23日】


  22:我妻 雅彦さん

【年齢 :36歳、職業:会社員、性別:男性、住所:福島県】

発症したのがおそらく16歳ぐらいだと思います。それまで両眼2.0見えていたのが、学校の検診で1.2と言われました。マイコンのやりすぎで仮性近視にでもなったのだろうと考えていたのですが、高2で1.2になり高3の春で両眼0.8に落ちていました。就職を控えていましたので、眼鏡でも作ろうと思って町の眼鏡屋さんへ行って検査しました。

結果はコンタクトじゃないと視力でないという訳で、福島県郡山市の今泉西病院を受診。検査の結果でまず言われたのは、酷い逆さまつ毛だという事。まつ毛で角膜を傷つけているので、治さないと視力矯正どころではないと言われ、それで逆さまつ毛の手術という事に。この時点で一重まぶたから二重まぶたになる。ですから私の写真は高3の秋を境に顔の印象が変わっています。

この時点で円錐角膜と言われていたのですが、この病院の院長に言われた事が「あなたの左目はあと10年ぐらいで視力が出なくなるかも知れません」と言われました。この時ショックを受けていたのが、やはり母親でした。ここからはHCLとの付き合いになりました。外れやすいHCLでしたが、22歳の時にコンタクトを無くしたので、安く作れると聞いたビックカメラ池袋店へ。

丁度転勤で東京に居たのが良かったか?そこの先生に、「酷い円錐角膜だねぇ。一度私の病院へいらっしゃい」と言われ、日本女子医科大学付属病院を受診。ここで非球面レンズという物を処方してもらい、フィッティングが抜群に良くなり大満足。1年程快適に過ごしていたが、昭和63年の9月末日に左目にコンタクトを入れたらとっても痛い。

会社の女の子に、目に水ぶくれが出来てるよと言われて、いつもの事だと思っていたら、上司にも言われたので、浦和のとある病院へ。そこでは水泡性角膜炎と言われたが、早い話が円錐角膜が進んで角膜の一番内側の膜が破けてそこに房水が入ったらしい。この時点で郡山市の病院へ行けば状況が変わったかもしれなかった。

これを機会に今泉西病院を受診する事にする。この時に担当してくださったのが川島千鶴子先生で、以後私の信頼する方となる。院長診察をして角膜移植希望を登録する。これが平成3年9月のこと。そして平成3年12月20日の10時ごろに病院から電話があり角膜移植できるとのこと。随分早いなと思いながらも移植する旨を伝え帰宅し病院へ。翌日の8時から手術するとの事。

翌日は朝から慌しくいろんな処置をしてストレッチャーに乗って手術室へ。こうなればまな板の鯉でどうにでもなれの状況に。麻酔を掛け眼球が動かなくなった所でとどめの注射。眼球の裏の方に打つ。ただ針先が眼球に近づいてくるのであれに耐えられないと怖いかもしれない。でも痛くないです。眼窩に枠をはめていよいよ始まり。

はっきり記憶しているのは自分の角膜が切り取られたところまでで、あとはボーっとなっていました。痛いところも無く病室に帰ったのは多分10時ごろだったのでは。麻酔が効いている間は頭がぼうっとしていた。左目がすこし疼くので麻酔が切れたなあと思うがそれでもボーっとしている。絶対動いてはいけないと言われているので頭の両側に砂袋?のようなものを置かれて頭を固定。

ここで何がツライって動けないのが辛い。午前4時ごろ少し寝る。朝8時30分に先生の診察が始まる。看護婦さんが病室に迎えにくる。起きますよと言われるも起き上がれない。診察の結果、経過は良好で拒絶反応も出ていないので起きても良いとの事。いやあ楽になった。あとは寝ているだけだ。術後2週間でヒゲを剃って良いと言われる。でも電気カミソリは使用禁止。

結局術後1ヶ月で退院。でも退院後1週間で拒絶反応がでる。なんとか注射、点眼、内服薬で落ち着く。その後何回か拒絶反応がでるが、薬で抑えて現在最後の拒絶反応から7年経過し、眼鏡使用で1.0はばっちり見えます。右目はというと円錐角膜を和らげるためのPK術をやったりしたが、結局あんまり視力がでないので、恐らく3年後ぐらいに角膜移植をする事になるでしょう。

この病気を患っている皆さん。決して怖い病気ではありません。むしろ社会的認知が遅れている方が怖いぐらいです。信頼できる病院&医者に巡り会えるまでの辛抱です。頑張りましょう。

【送信日時 2002年01月28日】


  21:たかさん

【年齢 :33歳、職業:会社員、性別:男性、住所:東京都】

<発症〜発見まで>
視力が落ち始めたのが、小6の時でした。その時、眼鏡屋で眼鏡を作ったのですが、右目の方の乱視がきついとの事でした。そのまま中3まで眼鏡で生活していたのですが、中3の12月に地元の大きめの眼科に行き、円錐角膜と診断。そのまま右目の円錐角膜用のHCLを作成して、HCLと眼鏡のダブル矯正生活を続けていました。

<就職〜移植申し込みまで>
20歳で就職で東京に来たのですが、東京ではどの眼科にもかからずに、1年を経過しました。1年が過ぎて、いくらなんでも経過観察をしないといけないと思い、会社の診療所経由で某大学病院に行きました。そうしたところ、コンタクトを作り直してはという話になったのですが、当時会社を休めないという理由で辞退した所、コンタクトレンズ屋さんを紹介されました。

そこのお店は熱心にフィッティングをしてくれて、移植までずっとそこでHCLを作成していました。病院の方はというと、色々調べて順天堂に突撃しました。ずっと半年に一回の経過観察だったのですが、25歳位の時にコンタクトの状態をチェックしてもらった所、現状のコンタクトでNGの場合は移植適用という事でした。

その後、たびたび角膜を傷つけていたのですが、27歳の時にコンタクトを再チェックしたところ、もうダメでしょうと言う事で移植の申し込みを行いました。

<移植>
移植申し込みが6月だったのですが、会社に電話がかかってきたのが3月でした。待機期間が3年〜5年と聞いていたので、早すぎてあっけに取られていました。 移植は皆さんが書いている通りです。病室に戻った時には顔が真っ青だったらしい…。移植直後は、縫った糸がまぶたに引っかかって痛かったです。そのため、目を動かさないようにしてそのまま寝てしまいました。

翌日アキュビューを乗せてからは、その痛みも無くなって大分楽でした。入院期間は、火曜入院で木曜手術、日曜退院だったので6日間でした。その後、一週間自宅療養でした。

<抜糸まで>
まず、退院してすぐの問題は1ヶ月洗髪禁止。これがきつかったです。会社帰りに眼帯男が美容院に行って洗髪だけしてもらう…。事情を話すと分かってもらえるんですけど、これが意外でした。抜糸は6ヶ月後から1ヶ月に2本ずつで、全部抜けたのが移植してから1年後でした。

<現在>
現在は右目のコンタクトを作り直して、0.7〜8位の視力になっています。 けど長年左目だけで慣れていたのと視力差があるので、左目だけで見てしまうことが多々ありますが。自分の経験からは、他の人も書いていますが、信頼できる先生を見つける所が重要と思います。それでは、皆さん頑張ってください(^^)

【送信日時 2002年01月17日】




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