病気の症例
ライン

はじめに / 作者症状 / リンク集



☆円錐角膜の体験談をこちらで募集しています。

  60:かずさん

【年齢:40歳、職業:SE、性別:男性、住所:神奈川県】

円錐角膜で右目の角膜を移植して、早20年が経ちました。左目も円錐角膜でしたが、それほど進行していないので、レンズのみの対応でした。何となく物が見えにくいと思い、近所の眼科で診察したところ、両眼の円錐角膜と診断されました。ただし悪化しているのは右目の方だけで、左目はレンズでの矯正が可能との事でした。

眼科医の勧めで横浜市大病院へ行きました。診察結果はやはり円錐角膜でした。「治るんですか?」と聞いた所、「角膜移植以外では治らない、レンズを使えるようにする為の手術です」と言われました。手術というものを受けた事のなかった私は、リスクなど頭になく怖いもの知らずでした。お願いしますと言ってすぐに予約をしてしまいました。

申し込みから半年くらいなのか、忘れかけていた頃に会社に病院から電話がありました。角膜の提供者が現れたので、すぐ病院に来てほしいと。会社からタクシーで寮まで移動し、すぐに入院の準備をして、またタクシーに乗って病院へ行きました。それから入院の準備や手続きを済ませて病室に入りました。しかしすぐに手術という訳ではありませんでした。

眼科病棟の大部屋は、網膜剥離で入院をしている人達が大半だったと思います。20代から50代くらいまでの人がいました。病院にいるとこんなに大勢の人が病気と戦っているんだと、健康である事のありがたみを感じました。入院した夕方から手術が行われ、手術の説明と同意書にサインをしました。

この時になって、ようやく手術のリスクを現実のものとして考えるようになりました。失敗したら失明するかもしれない。この場に及んで怖くなってきました。もう後戻りはできないので、手術服に着替えました。手術室へ運ばれる時は、もう顔はこわばっていました。手術のライトが眩しい。それが最初に感じた事です。

目に麻酔の注射を打ちますが、局部麻酔なので意識はハッキリしています。なんといっても目の前で作業が行われるのですから、切っている様子や縫っている様子、カメラの音なども聞こえ、私はモルモット?というような感覚を覚えながら手術が終わりました。後で聞いたのですが、3時間程度の手術だったとか。当の私は汗びっしょりになって、失明はしてないのか?完全に放心状態で病室へ戻ってきました。

ベットには自分で上がれず、運んでもらったと思います。過去にこれ以上ないくらいの怖い経験をしたと思いました。翌朝に診察を受け、なんと車椅子で移動しました。今になって思えば情けない気もしますが、当時はあまりの怖さにショック状態が続いていたんだと思います。角膜移植の手術は成功しても、角膜の拒絶反応や角膜に血管が入るなど、後から色々な問題も発生する事が多いと聞きます。

手術後しばらくは目が腫れて、毎日痛い思いをしました。1ヶ月の入院で退院できましたが、目の腫れは2ヶ月間は続きました。その間の外出は、ずっとサングラスをかけていました。今では大きめのレンズで矯正して、充分な視力も出ています。角膜を提供して下さったご家族や、手術をして下さった先生、看護婦さんには本当に感謝しています。ありがとうございます。

当時は軽度だった左目の円錐角膜も、20年の歳月によって少しずつ進行したのか、最近は装着感が悪く、角膜の中央が濁っているとの事です。移植手術のあの怖い思いはもうしたくないですし、昔と比べ新陳代謝の悪くなった今、移植が成功するのかを考えると、安易に移植の道は選べません。進行よ止まって!そう思う今日この頃です。

そしてこの病気が子供達に遺伝しない事を切に願っています。

【送信日時 2004年03月03日】


  59:si-vさん

【年齢:29歳、職業:建築、性別:男性、住所:東京都】

「円錐角膜」を初めてネットで調べてみました。自分の他にもこの病気で苦しんでいる人がいて、正直ほっとしました。私の場合はおそらく軽いもので、今のところ裸眼で生活しております。しかし右目が発病しているため、ほぼ片目の生活です。ハードで度はそれなりに出るのですが、はっきり言って苦痛です。

ソフトで視力が出たらどんなにいいかと思う毎日です。自分の場合は祖母が同じ病気で、いわゆる隔世遺伝というものです。祖母に罪はありません。もちろん私がこの病気にかかっている事も知りません。祖母はこの病気の為にレンズの実験台にされ、そのうえ運悪く片目を失明しているのです。デパートで高い物を取ろうとした若者の、肘に当たり失明したのです。

祖母はこの病気が隔世遺伝すると医者で聞き、今でも孫に遺伝していないかと心配しています。今は右目だけですが、左目にもその兆候は出ています。しかも馬鹿みたいに建築関係で溶接をしたり、目に悪い事をやってます。埃がすごいからコンタクトなんてしいられないし、片目では遠近感が分からないから、怒られてばかりです。

私は軽い方だからまだいいけれど、人の事を理解しようとしない人間が多すぎると思います。私はバイク乗り、乗る度にハードをしなくてはいけない。ちょっと横を見たりするとレンズが外れてしまいます。またゴーグルもかかせません。これだけレンズが発展してるんだから、ソフトで度がでるようにならないのかな?でもバイク乗れるだけ幸せ?

みんなはどうしてるのかな?免許は取れないのかな?次の更新が不安で仕方がないです。みなさんはどうしているのでしょうか?

【送信日時 2004年02月15日】


  58:和彦さん

【年齢:25歳、職業:学生、性別:男性、住所:愛知県】

初めまして。名古屋に住む25歳の大学院生の者です。僕は20歳の時に円錐角膜と診断されて、もう5年になります。小学生の途中までは両目共に2.0という、周囲も羨む程の視力を誇っていました。それが小学校の後半ぐらいから1.5ぐらいになって、中学生になった時は1.2だったと思います。

それでも教室の一番後ろの席からでも、余裕で黒板の文字は見えてました。高校に入り視力は1.0を切り眼鏡を作りましたが、その頃は「眼鏡=カッコ悪い」という気持ちがあり、一度も眼鏡をかけませんでした。高3の秋までは裸眼で0.5はあったと思います。そんな僕も大学に入り授業に行ったのですが、前から3列以降だと黒板の文字が見えませんでした。

そして2年になる時に、新たに眼鏡を作りに行きました。「少し乱視もありますね」と言われたのですが、眼鏡で十分矯正できる範囲でした。その頃はバスケットボールをやっていたので、周に3回ぐらいの頻度で使い捨てのソフトコンタクトをし始めました。眼鏡とソフトコンタクトは、共に1.0ぐらいは見えていました。

そして、2年〜3年になる時の春休み(1999年)に惨劇は起こりました。その日はソフトコンタクトをしていましたが、何か違和感があったのです。ちなみに毎日の日課は数学の本を読むことでした。(数学専攻なので)家で本を読んでいておかしいとは思い、左目をつぶり右目だけで文字を見てみると、文字が薄く何重にも重なって見えたんです。

左目だけで見るとハッキリと文字は見えました。慌てて眼科に行き検査をしてもらったのですが、特に異常は無いが確かに視力は出ないから不思議だとの事でした。どうしてもおかしいと思い、不安な気持ちで某総合病院に行ったのです。そこで経緯を説明し診察していただくと、「円錐角膜ですね、それも右目だけではなくて両目です」と言われました。

治りますかと尋ねたところ、「治りません、原因も分かりません、放っておくと失明します」の言葉にショックを受けました。ただ泣いて過ごした日々しか覚えていません。調べてみると現代の医学で角膜移植が唯一の手段だという事を知りました。僕は治したいその気持ちしかありませんでした。

その病院の医師に角膜移植を嘆願したのですが、程度としてはまだそんなに酷くはないし、角膜移植はそんなに簡単にできるものではないと言われました。ハードレンズを装着してみたのですが、物はハッキリ見えるものの、光が入りすぎて目を開けるのが辛いのです。それが何回装着しても続いたので訴えたのですが、サングラスしてもらうしかないと冷淡に言われました。

その後は左目が眼鏡で割と見えてたので、日常生活はそれでまあ良いという気持ちに変わってきました。元看護士さんである親戚の方が、その看護士ネットワークを活かして、良い情報をくださりました。三宅病院という所に、円錐角膜のスペシャリストがいらっしゃるとの事でした。僕は唯一の希望をそこにかけて診察して頂きました。

角膜の写真を撮ったり、素人の僕にはよく分からない検査を沢山しました。初めての時は、右目は少し進行しているけど、今すぐ手術という話でもないので、後々手術を考えて行きましょうという見解でした。そこでレンズを作ってもらったのですが、今度はちゃんと見えたのです。見えた喜びと、手術してもらえるかもしれないという喜びで安堵しました。

それからは、宅病院に定期的に通いました。そして2001年に突然病院からの電話があり、右目の手術をしましょうとの事でした。もちろん手術した後は絶対安静で、しばらく入院し退院後も2週間は目が開けられませんでした。物が見えた時は本当に嬉しかったです。正確な記録をしていないので何とも言えないのですが、徐々に右目の視力が良くなっていったように思います。

そして去年(2003年)の夏に、レンズを作って装着したところ、手術した右目が1.5出たのです。世界ってこんなに綺麗だったのかと思いました。ちなみに左目はレンズを入れても、0.7くらいです。先月のある日に、矯正すれば1.5見えていた右目が、ほとんど視力が出なかったのです。これは5年前の悪夢再発かと思い、またしても慌てて三宅病院に行って検査をしてもらいました。

結果的には異常なしとの事でした。手術して下さった先生曰く、手術した糸が緩んでいるので、来年に抜糸しましょうと言われました。抜糸すれば変わる可能性は高いし、そうでなくても円錐角膜の人は角膜のカーブが変わる事がよくありますとの事です。僕の乱視は珍しいパターンらしくて、左右対称でないというか、眼鏡をかけると少し右目と左目がズレて見えるんです。

問題点を整理しますと、右目のコンタクトをした場合のみ視力が出ない、右目と左目が眼鏡越しにズレて見えるです。円錐角膜と診断される前のくだりから長々と書きましたが、1つ参考になればと思い書かせて頂きました。

【送信日時 2004年01月02日】


  57:トモダーさん

【年齢:35歳、職業:会社員、性別:男性、住所:埼玉県】

私が角膜移植をしたのは、やはり円錐角膜が原因でした。今から20年前になりますが、中学3年の頃にコンタクトレンズを使用していましたが、高校1年になった時は文字が見えず、レンズをすると異物感が多かった気がします。念のために近くの眼科へ行ったら「強度の近視だね」と言われました。

しばらくそのままCLを使っていましたが視力がでず、これはおかしいと思い別の病院に行ったところ、円推角膜であると言われました。「何故こんなになるまでほっておいたのですか?」と怒られてしまいました。そして角膜移植を勧められ、日本大学板橋病院を紹介して頂ました。病院に行って検査の結果、進行が進んでいる為に移植の手続きをすぐにしました。

手術の日がいつになるのか、不安な気持ちで毎日を過ごしました。一度、手術が可能であると言われましたが、不安と私用により延期してもらいました。これが悪かったのか、その後は連絡が来なくなり、1年後ようやく手術を受けました。手術はあまり良いものではないですね。そして2年後にもう片方の目も移植しました。

移植してからも視力はあまり出ませんでしたが、私はこの世の中がまた自分の目で見られる事に感謝しました。また精神的には不安定な時期が続いたと思います。移植後、初めに手術をした右目の方は乱視が強く、乱視の修復をレーザーをやりましたが、あまり良くなりませんでした。

当時はまだレーザーも発展途上であった為、病院の方でも試験的に行っている感じがしました。言い方が悪いですが、大学病院の実験台(モルモット)の様に感じた事もあります。あれから約20年が経ちましたが、私の現在の目の状態を言います。右目はCLをしても乱視が残ってしまい、レーシック等を病院で紹介されましたが、あまりにも乱視が強い為に出来ないようです。

色々と考えた結果、私としては右目の方を再度、移植手術を行う事に決めました。30歳を過ぎてから乱視が強いので、眼鏡をしても頭痛や肩こりが酷く、何とかならないものかと思い決心しました。また辛い手術をする事になりますが、自分の今後に期待する為にも手術をします。昔と違い、今は日帰りで手術が出来るので、仕事にも支障はないと思います。

この場をかりて約20年間、自分の右目の角膜を提供して下さった方に感謝したいと思います。移植が出来なかったら、今の自分はなかったと思います。20代に色々な経験が出来た事、それも自分の目で確認出来ました。ありがとうございました。今度また右目の手術を行いますが、予定は今年の中旬頃になります。

海外の角膜を使用しての手術なので、手術代は保険が一部しか利かず、約50万円くらいかかります。不安はありますが、自分の後半の将来に期待するつもりです。常にチャレンジして行く為にも。角膜を提供してくれる人の分まで頑張りたいという気持ちです。また手術後に報告をしたいと思います。

【送信日時 2003年12月08日】


  56:A.Iさん

【年齢:24歳、性別:女性、住所:静岡県】

私は小さい頃から視力が悪く、右目は弱視と言われていたので、小学生の頃は弱視治療をさせられました。しかし小学生にとって、片目のよく見える方を眼帯でふさいで生活するなんて事を受け入れられるはずも無く、すぐに断念。そのまま大人になり、右目はほとんど見えないけど、左目はコンタクトすれば0.5ぐらいは見えるし、まぁいいやと、割といい加減に過ごしていました。

ところが2年ほど前の夜の事です。右目に激痛が走りました。私はマスカラが目に入ったのかもと思い、メイクをすぐに落とし、アイボンで洗浄をして、市販の目薬を点しました。(女性の方はおわかりになると思いますが、マスカラって目に入ると激痛ですよね)ところが5分経っても10分経っても痛みは治まらず、それどころか涙が止まらない上に、瞬きするだけで頭がクラクラするほど痛い。

急いで病院に行きたかったのですが、時刻も遅かったため、翌日まで我慢する事に。元々視力の低い私は運転免許がないので、自宅から一番近い眼科を選びました。普段なら、歩いて5分で行ける場所なのに、あまりの痛みでめまいがして、途中何度もしゃがみこんでしまい、結局20分以上かかってしまいました。

そこは小さな個人病院なのですが、人気があるらしく待合室から人が溢れて、玄関で座っている人もいました。私が受付に行くと看護婦さんは、わたしの顔(涙を流す腫れ上がった右目)を見るなり「すぐに診察します」と言ってくれました。そこではじめて「円錐角膜」という言葉を聞きました。とても痛かったのは、角膜表皮剥離との事でした

。医師は「痛かったでしょう、よく一晩も我慢できましたね」と言って、痛み止めと、ヒアルロン酸の目薬を処方してくれました。しかし角膜移植の話やHCLの話は全くありませんでした。その後も、別の医院に行きましたが、目薬を出されるだけで、具体的な話はされなかったので自分で本を読んで少し調べてみました。

すると弱視の人は角膜移植を受ける事ができないとありました。このHPを見つけて嬉しくなって、みなさんのお話を拝見すると、角膜移植や視力の低下の事が多いように思いました。角膜移植が出来ないという方や、度々激痛に襲われてしまうように思えて、また少し不安になりました。

角膜移植の出来ない方、角膜表皮剥離の激痛と戦っていらっしゃる方、一緒に頑張りましょう。

【送信日時 2003年11月20日】


  55:かむしゃぁりぃさん

【年齢:34歳、職業:会社員、性別:男性、住所:大阪府】

高校を出て就職をする時に、今まで近眼でもメガネを作らずにいたのを、これではいけないと眼科へ行き、右目が円錐角膜と診断されCLを作りました。しかし長時間の装用は難しく、医師からは「進行を抑える為にも我慢して入れて下さい」と言われ、なるべく入れるように頑張りましたが、仕事で高い所、粉塵の多い環境で、左目のみCLを入れ、片目での生活を始めました。

幸いな事に左目は16年間カーブや度も余り変わらず、2〜3年毎に傷付いたCLを交換するのみで、右目は見えないまま(裸眼0.02以下)で現在に至ってます。車も片眼で更新してますが、夜の運転はなるべく避けてます。所で皆さんの中で就職されてのち、各種生命保険を自分自身に掛ける事がある時に注意した方が良いのは、告知で素直に円錐角膜と申告した場合、付加特約に条件が付くかも知れません。

私自身20歳の時に大手生保に団体契約する際に、入院特約が審査で拒否され、死亡時のみの扱いに限定されました。そして他の保険会社にも個人情報を流され非常に苦労しました。進行性の病気で車の運転等でリスクが多いと云うのが理由だそうです。結果、外資系に病名告知をせず、他に簡易保険等で補ってます。

現在はどうか判りませんし、一応この病気に関して参考になればと思い書きました。しかし最近ようやくインターネットを閲覧し始めて、今日こんなサイトが有るとはと正直ビックリしました。これからも時々覗いて現状を改善するきっかけになればと考えます。

【送信日時 2003年10月11日】


  54:ケビン・テントさん

【年齢:26歳、職業:会社員、性別:男性、住所:栃木県】

自分は小学生の頃から近視で眼鏡を使っていました。13、4歳の時、眼鏡では視力が出なくなり、円錐角膜と診断されました。それ以来ハードレンズを使用していました。ただ特殊なカーブに対応したレンズと言う以外、メーカーや製品名などまったく知りませんでした。徹夜をしたり1日中運転したりとか無理をすると、痛くなる事はありました。

ただ自分の場合、涙の成分に脂肪が多く、レンズが汚れやすかったせいもあるかも知れません。とにかく普段は特別意識する事もなく、検査もレンズが限界まで汚れていたり、無くした時に診てもらうくらいでした。ところがここ2、3年花粉症の時季になると、異物感や痛みが酷くなります。

去年まではアレルギーと涙の成分に近いという点眼薬を処方されましたが、今年はカーブがきつくなったとの事で、ソフトの上にハードを乗せる事を勧められました。2月から使い始めましたが、ものすごい量の涙に悩まされました。液体と言うより半固形の涙が視界を遮り、目は真っ赤に充血です。

仕事上、運転しなければならないので、1回は外してレンズ洗ったり点眼薬したりしての繰り返し。大体2週間ごとにソフトレンズ取り替えていました。1枚約3500円とそんなに高くないけれども、ボディーブローのように財布に響いてきました。半ギレで医師に相談したところ、涙に関してはアレルギーもあるので仕方ないそうです。

レンズについては角膜の保護のために、通常のレンズを勧めるが希望で、使い捨てレンズも検討しましょうとの事。ところが花粉が治まるとともに症状も収まり、4月21日現在は好調。でも来年の春を思うと今から憂鬱です。カーブの変化もあり急に不安を覚え、このHPにたどり着いた次第です。

ちなみにお世話になっているのは、宇都宮市の原眼科といいます。原先生曰く、円錐角膜も研究が進んでいて近い将来には、角膜移植以外にも手術での治療が出来るかも知れませんとの事です。どなたか何かご存知の事があれば是非教えてください。お願いします。

【送信日時 2003年04月22日】


  53:kamjin777さん

【年齢:43歳、職業:自営業、性別:男性、住所:福岡県】

はじめまして。実はつい最近2回目の角膜移植手術を行って、退院したばかりの者です。私は福岡市にある林眼科にて手術を受けました。記憶が鮮明なうちに日記帳をつけていたので、手術当日と翌日のものを掲載させていただきます。2003年2月10日(月)本日いよいよ右目の角膜移植の日。

去年左目に同様の手術を受けたので、その時ほどの不安感はない。午後2時すぎ手術前の投薬を行い、精神をリラックスさせる部屋へ。去年はこの部屋に通された時が最も緊張したものだ。午後4時すぎ手術台に乗せられ、台車ごと手術室へ入りオペ開始。先ほどの部屋で耳の後と目の下に麻酔薬を注射したのだが、目の前が真っ暗になった前回と違い、まだ目が見える。

院長の手に握られた器具のようなものが視界に飛び込んできた。ウワァー!この状態で手術が進行するの?これは精神的にかなりきついゾ!更に麻酔しているはずの目の感覚が若干残っており、少し痛みを感じる。前回は全く気にならなかった事で最も恐怖心を抱いた。おまけに鼻から口にかけて布切れがかぶせられているので自由に呼吸ができない。まさに三重苦の中で手術は続けられた。

しかも何度か院長より「力を抜いてください、力が入り過ぎると手術が上手くいきませんよ」と脅しのような声を掛けられ、頭の中はかなりパニック!視界の方だけは段々と麻痺していったが、口だけで呼吸せざるをえず、これが一番きつかった。精神を落ち着かせる為に、看護婦さんが握ってくれている手の感覚だけがせめてもの救いで、これは不安な患者心理を落ち着かせるのに絶大な効果がある。

そうこうしているうちに約50分ほどの手術の全工程が終了した。鼻が詰まったのが最も苦痛で「鼻かみますか?」と聞かれて、「鼻はかめん」と看護婦さんについあたってしまった。前回は本当に何事もなく、スムーズにいったのだがなあ…でも最難関の手術がとりあえず終了したので、結果がどうであれひとまず安堵。

絶対安静の2時間ほど眠り、点滴を受けた後、やっとこの日の夕食。昼食抜きであったのと、長時間にわたるストレスから解放されたのとで、今まで食べた病院食で一番美味しかった。こうして美味しい食事が頂けるのは、全て病院のスタッフの方々をはじめ、家族や友人、一緒に働く仲間が暖かく見守ってくださったおかげ。この場を借りて改めて感謝申し上げます!

2003年2月11日(火)
午前中、院長先生による入院患者診察。回りはほとんどおばあさんばかり。白内障手術の為の入院が大半のようだ。自分の番が回ってきて、ゆっくりと眼帯が外される。緊張の一瞬。そっと目を開けてみると手術後初めての光と共に外の景色が飛び込んできた。見える!反対側の左目の視界と比べると、こちらの方がよく見えるくらいだ。

やったー!成功だ!!しばらくの間リハビリと静養が必要であるが、まずはめでたし、めでたし。肩の荷がふっと降りた感じがした。

【送信日時 2003年02月26日】


  52:マーチさん

【年齢:21歳、職業:学生、性別:女性、住所:大阪府】

私は21歳の大学生です。私が円錐角膜と診断されたのは高校1年生の時でした。はじめはどういう病気かわからず、あまり深く考えていませんでした。幸い円錐角膜は左目だけだったからです。しかししばらくすると、右目を酷使する状態なので、右目の疲れが酷くなってきました。

視力もだんだん下がってきて、日常生活を送るのが辛くなり、コンタクトをする事になりました。はじめて作ってもらったコンタクトは、とても痛く長い間つける事ができませんでした。しかし何度か病院に通い、今はニチコンのローズKで結構安定しています。円錐角膜になって本当に辛く思う事があります。

周りに同じ病気の人がいないので、相談する人も少なく大変です。今、私は就職活動中なんですが、目が疲れやすいので仕事をしていけるかと悩んだりします。しかし前向きに取り組むしかないと思い、頑張っています。皆さんが前向きにこの病気と向き合っているのを見て励まされました。

私は中学に入る前は視力が良く、アレルギーも持っていないし、どうしてなってしまったんだろうと考えた事が何度かあります。今でもやはり悔やんでいます。しかしポジティブに考えていこうと思っています。この病気になって得る事も多くありました。これからも何かいい情報があればこのサイトで紹介していきます。

皆さんと語り合いたいです。同じく就活している方、頑張りましょう。

【送信日時 2003年02月26日】


  51:あおちゃんさん

【年齢:38歳、性別:女性、住所:新潟県】

26年前(1976年頃)に円錐角膜の治療のために角膜移植手術を行いました。

<診断のきっかけ>
中学入学後の眼科検診で良く知っている眼科の先生に診てもらったところ、検診後すぐ病院に来なさいと言われました。病院で検査した結果、すぐに円錐角膜と診断され、「角膜移植が必要です、新潟大学病院に行きなさい」と言われました。自覚症状もなく(確かに視力は落ちていたのですが)初めて聞く病名でもあり、すぐには理解できませんでしたが、信頼していた先生の言葉だったので、大学病院を受診しました。

<角膜移植>
大学病院での角膜移植の申し込みが4月末でした。その後6月末のある日、中学へ「手術のために入院するからすぐ帰りなさい」と電話が入り、その日のうちに入院・手術となりました。あまりにもあっという間の出来事で、不安を感じる余裕もありませんでした…。

手術後、同室の患者さん達から、角膜の提供者が少数のため、何年も待っている人がいるとか、拒絶反応などのため、十分な視力が出ないこともある事などを初めて聞きました。

<円錐角膜という病気の理解>
当時の医師からの説明では、始めに視力の低下、その後次第に角膜がとがり、破けてしまえば治療できない。原因はまだ解明されていないが、その因子を持つ人の中で、10代から20代で発症する事が多いという程度でした。

<手術の様子>
片目だけ見えるように穴があけられたマスクをかけられ、目の回りに麻酔を打たれました。(これは痛かったかもしれません)局部麻酔のため、手の動きもぼんやりとですが見えるし、話は全て聞こえます。切り取って、張り合わせて、縫っているなあという感じでした。手術そのものよりも、その後の安静状態を保つ方が大変でした。当時は頭の両側を砂袋で固定して10日間以上安静にしていました。

当然手術した眼は(仮面ライダーの目のようなカバーで)保護していて使いませんが、見るという動作は両目で行われるので、術後何日間かは、眼球を動かさないために、両目を塞いでいました。

<術後の経過>
拒絶反応は若干ありましたが、経過は至って良好で、視力の回復も良かったようです。20年以上も前の事なので詳しく覚えていませんが、定期検診の度に、「非常にきれいに付いている」と誉めらた事はを覚えています。

<現在の状況>
中学1年の6月に左を、3年の9月に右を移植しました。その後、一年位はコンタクトを使用しました。やはり乱視が強いので、眼鏡で視力を出すのが大変だからです。今は裸眼で0.7と0.5は見えるので、日常生活に全く支障はありません。

<心配している事>
今回このHPの体験談を読んで、HCLによる進行止めの方法がある事を初めて知りました。しかし、当時の医療現場の状況や今の私の状態から、角膜移植した事は正解だったと思っています。私の性格的にHCLを装着しながら、一生円錐角膜と付き合っていくのは難しいと思うので。そしてつい先日までは、自分が円錐角膜だった事や角膜移植をした事なんて、遠い過去の出来事のように忘れ去っていました。

ところが「移植した角膜は30年前後で白濁する、再移植の必要がある」といった内容をラジオで聴き、急に不安を覚え、情報収集を始めたところ、このHPに出会いました。もし角膜移植のその後について、詳しい方がいれば教えて頂きたいと思います。

<終わりに>
移植の話し中心になりますが、まだ13才だった私は「これは、生きるか死ぬかの問題ではないんだ」というレベルで心落ち着かせ、受け入れようとしていた気がします。そして見ず知らずの私のために角膜を提供してくれた人がいる事は人生を歩いていく上での大きな道しるべになりました。

私もそんな生き方をしたい…いや、しなければと思ってきたようです。どんな病気も自分にしかわからない辛さがあるものですが、そこからしか始まらないならば、嘆いていても仕方ない。そんな心境です。

【送信日時 2003年02月18日】




はじめに / 作者症状 / リンク集


ライン

Topへ戻る