病気の症例
ライン

はじめに / 作者症状 / リンク集



☆円錐角膜の体験談をこちらで募集しています。

  80:まー

【年齢:36歳、職業:会社員、性別:男性、住所:山梨県】(No.69から)

3年ほど前に体験談を載せて頂いた者です。現在の状況をお話したいと思います。私は両眼円錐角膜で、3年前まではソフトレンズとハードレンズを組み合わせる、ピギーバック治療を受けていましたが、現在は円錐角用のハードレンズを処方されています。2枚から1枚になったおかげで、眼への負担は軽くなったと思います。視力の方はなかなか出てくれないので苦労しております。

今回の免許更新もギリギリ(半分は、あてずっぽ)でした。次回の更新時までには視力を引き出すレンズ、もしくは治療法が出てくればと思っています。

【送信日時 2008年11月09日】


  79:王さん

【年齢:26歳、職業:学生、性別:男性】

僕は中国人です。円錐角膜を患って、もう10年以上も経ちました。
今、ハードコンタクトを着用しています。視力は0.8くらい矯正できますが、迎えに来た知人が分からないことがあり、すごく悩んでいます。角膜移植をしてもリスクが高いほか、改善に限りがあると言われ、未だためらっています。これから、日本の万能細胞に期待をしてますが、どうなるだろうな…。

【送信日時 2008年08月25日】


  78:けんちゃんさん

【年齢:28歳、職業:会社員、性別:男性、住所:福岡県】

私は21歳の時に、眼科医院で円錐角膜と診断されました。今は視力も落ち着いて、天神の眼科医院にて、たまに診察を受ける程度です。数年前からはコンタクトレンズ代も考えて、メニコンの会員に入会しています。今は日常生活に支障もなく、生活を送っております。ただ、今は結婚願望もあり、今後、一生のパートナーを見つけて結婚を考えると、子供に遺伝しないかと心配になります。今だ、原因不明の病気であることは間違いありませんし…。

【送信日時 2008年08月15日】


  77:おっさんさん

【性別:男性】(No.76の続きになります)

【現在の移植技術】
はじめて角膜移植を受けてから、30年弱が経過して、手術の仕方もだいぶ変わった感じがしました。角膜移植技術もだいぶ進歩しているんだと思います。今のところ拒否反応も縫合糸の緩みも全くなく、順調そのものです。ここでは現在の角膜移植の状況について話したいと思います。手術は年齢的な所もあり、1回目は全身麻酔、2回目は局部麻酔+鎮静剤?の使用、3回目の今回は局部麻酔のみで、手術の状況がよく分かりました。

手術は痛かったぁ〜。ホント最後の最後は手をぐぅにしなと耐えられなかったです。終わった時には変な汗をいっぱいかいていました。病棟に戻って看護師さんに、痛いって言えば良かったのにと言われましたが、先生に先に、ちょっと痛いかもしれないので我慢してねと言われてしまい、我慢してしまいました。教訓:無理せず痛い時は痛いと言いましょう。手術は90分の予定で、病棟を出てから手術を終えて病棟に戻るまで、2時間だったことを思えば、予定どおりだったと思います。

入院は10日間でした。手術の流れは皆さんいろいろ情報提供していますので、私は過去にやった手術との違いをお知らせしたいと思います。

【手術前】
以前はアレルギー反応(春期カタル、アレルギー性結膜炎持ちでした。今でいう花粉症でしょうか)により、縫合糸の緩みがひどかったので、数種類の縫合糸を腕に貼り付け、アレルギー反応をチェックしていましたが、先生方は現在は全く気にしていない。何もしなかった。しかし、感染症防止の意識が高く持たれており、手術3日前から点眼を開始したり、手術中の感染症防止に気を使っておりました。

また、昔は手術中に涙が流れるようにと涙管を掃除した記憶(結構痛かった記憶)があるのですが、今回はありませんでした。手術開始前には手術する方の眼におもしを乗せ、圧力をかけ、柔らかくしてから手術を行いました。

【手術中】
手術の大きな違いは、縫合の仕方かなと思いました。よく覚えてはいないのですが、昔は8針とか16針位で止めていたような気がするのですが、現在は仮どめを行ったあと、まつり縫い的に縫合するとのことでした。結構きちんと止めているのかなと思いました。特段糸が浮いたりしなければ、抜糸はしないようです。縫い終わった後は、先生方の話し声を聞いていると、角膜のゆがみ?を調整して、医療用のソフトコンタクトレンズをのせ、眼軟膏を注入して終了しました。

ソフトコンタクトをそのまま入れておくのは、やはりレンズ技術の進歩なんだと思います。術後コンタクトレンズを入れるなんて、昔はありませんでした。

【手術後】
1点目は術後も自由に動けることです。昔は一昼夜?首を軽く固定されて,ベットに寝かせれていましたが、今は手術後すぐに起きあがることもできますし、歩行することも可能でした。2点目は見え方です。手術翌日にはびっくりするほど見えるようになりました。窓の曇りガラスをクリアガラスに取り替えたようなものでした。現在見えている左眼の方も、コンタクトを入れて1.0、コンタクトを外せば0.02見えるかどうかです。

外してしまうとほとんど見えないのと同じなので、コンタクトを入れるまでは、移植しても見えるようになったという喜びはありませんでした。しかし今回は物の輪郭がはっきりと見えるのです。本当にビックリです。移植後のゆがみ調整やその後のソフトコンタクトレンズの使用が角膜のゆがみを補正しているのかもしれません。ソフトコンタクトレンズは、途中一度交換しましたが、退院するまでの10日間連続着用していました。

3点目は感染症防止や拒否反応防止のため、計画的な薬の服用と点眼です。昔は感染症防止のための点眼は行っていたと思いますが、ステロイド系の服用等は拒否反応が出てからしか行わなかった気がしています。今回は、拒否反応もないのに、術後からステロイド剤の点滴と、その後飲み薬の服用するという形で、徹底した予防のための対策が取られており、角膜移植の治療パターンの1つに組み入れられているようでした。

また、眼軟膏も以前は拒否反応とか特別な状況の時にしか入れてもらえなかった気がしますが、今は日中が点眼、就寝時が眼軟膏ということで、一日中目玉は薬漬けになっている状況だと思います。今回経験した再移植は昔のイメージを大きく覆すものでした。先生と話しても、今の若い先生方は昔の状況が分からず、何言ってんだこのおっさんと思われたことでしょう。

でも移植技術に関しては大きく進歩して、成功率も上がっているんだろうなと、肌で感じた次第です。

【送信日時 2008年05月25日】


  76:おっさんさん

【性別:男性】

再移植を行い4ヶ月目になりました。今はこれまでに無い位順調で、かなり期待している状況です。20数年前に受けた移植方法とは技術的にも、社会情勢的にも、だいぶ違ってきているなと感じられたものでした。報告がだいぶ遅くなりましたが、私の生活の方もずいぶん落ち着いてきましたので、少しずつでも体験談を載せていければと思います。皆さんの参考になれば幸いです。

【現在の状況】
現在、再移植した眼は裸眼で0.3程度見えています。細かい字などが見えないのが気になるのですが、裸眼で物体の輪郭が見えるということは、今まで行った2度の角膜移植ではあり得なかったことですし、10歳位まで遡らないと記憶に無いことかもしれません。以前、移植した右眼は拒絶反応により濁ったままでしたし、左眼については、裸眼では0.02程度なので、移植してもこの程度なのだろう。

矯正しなければ視力の回復は無理だろうという程度でしか思っていませんでした。視力矯正はまだ先の話ですが、今回はだいぶ期待している状況ですし、良いタイミングでして頂いたと大変感謝しております。ただ、本当はもっともっとこの喜びを皆さんに伝えたい、分かってもらいたい気持ちではありましたが、以前とは違い仕事等をもっている状況での入院は少なからず?いや多いに影響し、喜びに浸るに間もなく、仕事や生活に追われる日々で残念だった気がします。

今回、輸入角膜を使用しましたが、仕事を持っている私にとっては、移植日の予定を入れることができ、計画的に実施することができ、大変ありがたいものでした。現在、矯正して1.0も見えている左眼ですが、内皮細胞は500を切っている状況です。以前は500以下になったらやばいと聞いておりましたが、今は一つの目安が400だそうです。見えている方の眼もかなりやばい状況になっているので、本当にタイミング的には良かったと思います。

【気づいたこと】
今回は真っ白にしか見えない濁っている方の眼を再移植しました。これまでは片眼(矯正して1.0)でしか見ていなかったのですが、ある特徴的な事象を除けば、遠近感がつかめないとか、片目で不自由だったとかはありませんでした。しかし、再移植した方が裸眼で0.3程度見える状況になると感覚がだいぶ違ってきて、遠近感や平衡感覚、部屋の広がり、視力の低い方の残像など、色々な感覚が交錯し、ちょっと辛い部分もありました。

見えない眼が中途半端に見えることによって、がちゃ眼的な感覚になってしまったのかなという思いでした。ただその理由が利き目?に関係するというのが、免許更新で明らかになりました。ちょうど移植後に免許の更新があり、両眼で視力検査(病院では片方ずつしかしません。1.0と0.3です。)を行う機会がありました。片眼の検査では両方とも0.3をクリア!(免許取ってから初めてのことです。)かなり嬉しいです。

さて、両眼で視力を測定すれば終わりだと思い、検査が始まった瞬間なんと全然見えませんでした。結局0.5しか見えず、別室での検査となりました。(別室ではクリアしましたが)両眼では測定したことがありませんでしたが、1.0と0.3の視力であれば両眼で見て1.0を下ることはないだろうと思っていたのが大間違いでした。これで手術後、見え方がおかしいと思っていたのが分かりました。やはり人には利き目があり、利き目の方でより見ているということなのだそうです。

私は視力の弱い右眼ということです。結構この生活、慣れるまで大変かもしれません。今までは左眼しか見えなかったので、人やふすま等、障害物を越して見ようとする時は、右眼が出ても見えないので、左眼で見るまでは顔を傾けたんだと思います。中途半端に右眼が見えることで、右眼が出ると、見えない右眼で見るようになり、しばらくぼやっとしたものが見えてから気づくことがあります。こんなことも両眼が見えるようになって気づくことでした。

【送信日時 2008年04月26日】


  75:katuyaさん

【年齢:22歳、職業:イメージシステム開発、性別:男性、住所:兵庫県】

私は現在、左目の視力に頼った生活を過ごしております。右目の視力だけでは本を読むこともままならない状態です。私が「円錐角膜」と診断されたのは高校2年の春でした。それまで「近視性乱視」と診断されており納得しておりましたが、コンタクトをした際の激しい痛みは耐え難いものでした。小学生の頃は両眼2.0と非常に優秀でした。中学入学時の視力検査でも、両眼とも問題なく視力がでておりました。

私がこの問題を自覚したのは、この年の秋でした。私の友人が肩をツンツンっとしてきたので何気なしに振り返りました。すると友人はふざけていたのでしょう…指を立てており、その指が見事に私の右眼へ命中しました。その痛さは激しいもので、私は授業中の1時間ずっと右眼を閉じて涙を流しておりました。1時間後にようやく涙が止まり、右眼を開けました。その時にはじめて異変に気づきました。

涙のせいで、いつもとは違う違和感があったのですが、それとはまた違う…ぼやけた見え方がするのです。(後に乱視とわかります)中学1年生と若かった私は、その異常でも気にすることはありませんでした。そして1ヶ月が経ったある日、もしかすると父親が異変に気づいたのでしょうか。急に私を呼び出して、似非視力検査をはじめました。その頃には症状が進行しており、右眼だけでは黒板の字を見ることが難しいほどでした。

左眼ではすらすら見えます。しかし右眼では見えません。今でも覚えているのは、父親にどのような見え方がするのか説明した時に、ポツリと「乱視か…」とつぶやいたことです。父親が「乱視は遺伝する。私の親族に乱視はいない」とまぁ、血縁関係のことはおいておきましょうか。(笑)早速、眼科に行くことになり、初診は左眼「遠視」、右眼「近視性乱視」でした。

眼科医へ右眼に指が刺さったことを説明しましたが、「関係ない」の言葉に子供ながら「この人に診てもらいたくない」と感じました。それから2週間に1度の通院になり、2ヵ月後には左眼「近視」、右眼「近視性乱視」となりました。その時には眼鏡の処方はなく、左眼1.2右眼0.8ほどで裸眼でした。中学2年になり、家族で引越しをしました。しかし、引越し後1年は眼科へ行きませんでした。

中学3年になり、近所の眼科へ父親に連れられ、眼鏡を作りに行きました。(ここで今でもお世話になっております)前の眼科では左眼「近視」、右眼「近視性乱視」と診断されたことを話し、視力検査をしました。左眼0.8右眼0.3でした。左右での視力が違うため、左眼ばかりを使用している状態でした。眼鏡を処方してもらい左眼1.2、右眼0.6にはなりましたが、それは視力的な数値であって、実際には乱視が強すぎて文字なんて読めたものではありませんでした。

高校生になると眼鏡からソフトコンタクトへ変更しました。コンタクトをしても右眼は視力もでず、痛みが酷いだけでした。それを眼科医に話すと、「左右の視力差を少なくするためにはコンタクトをするしかない」と言われました。そんなある日、高校2年の春です。いつものように眼科へソフトコンタクトを購入しに行きました。すると眼科医からそれまでずっと「近視性乱視」と診断されていた右眼を「円錐角膜」と診断されました。

「円錐角膜なのでハードコンタクトで<ふた>をしなければいけない」と説明され、ハードコンタクトで矯正することになりました。しかし、このハードコンタクトというのが、どうにもこうにも痛い。しかも眼球を動かすと、すぐ落ちてしまう。結局、ハードコンタクトは購入後3日で落ちてしまい、金銭的にも痛い出費に。そんなことが1年ほど続き、眼科医から「Mカーブ」というハードコンタクトを処方されました。

それまでのハードコンタクトと比べて劇的に痛みもなくなり、多少眼球を動かしても落ちないではありませんか。早くこのコンタクトにめぐり合っていれば…と思ったのは当然です。現在、左眼0.1、右眼0.03で、左眼も「近視性乱視」の状態ですが、このハードコンタクトのおかげで左眼0.8、右眼0.6まで矯正できております。1年に1度「Mカーブ」の販売メーカーに直に見てもらっており、コンタクトでの生活に不自由はありません。

コンタクトを落としたり割ったりした場合には、発注から1週間以上かかるので、その間は全く見えず不便ですが…代替になるものを用意しようかとも思案中です。落とすことが多々あるため、1年に1枚(2.5万)程度の出費になっております。ここでの皆様の意見を参考にし、角膜移植や角膜リングも思案中です。同じ過ちを繰り返さないための参考にでもして頂ければ幸いです。

【送信日時 2008年02月25日】


  74:みるみるさん

【年齢:25歳、性別:男性】

大学病院に行く前に、色々な眼科をまわりました。名医に近視性乱視と言われたりしても、自分では違うと感じていました。初めて大学病院で診察を受けた時に、「あれ」って言われたので、心拍数が一気にあがりました。嫌な予感がする…。名前を呼ばれ円錐角膜ですと言われました。 将来が不安になりました。車が運転できなくなるかもしれない。何度かコンタクトを作る時に、ハードコンタクトを奨められたのを思い出しました。

また、19才の時、「角膜が薄いみたいだから、大学病院に行けるんだったら紹介状書くよ」とも言われました。その時に、「病気の名前を教えて下さい」とお願いしたところ、「ここじゃいえません」と言われ、何をいってるんだろうと不思議でした。アトピー性皮膚をもっていて、よく眼をこするくせがあったこと。ソフトコンタクトをよく洗わなかった事があまりよくなかったのかもしれません。

【送信日時 2007年10月05日】


  73:ドットさん

【年齢:35歳、住所:愛知県】

2007年現在、35歳で愛知県に住んでいます。 1993年の21歳の時、車の免許の更新の視力検査で、まったく視力がでず、更新できなかったので、メガネを作りに近所の眼科に行きました。病院の先生は、診察の時、非常に物、珍しそうに私の目を、見ていたのを、よく覚えています。

そして、診察の結果、メガネでは意味がないので、ハードコンタクトにしましょうと言われました、私がどうして、メガネでは駄目なんですか?と聞いてもはっきりしたことは、言わず、メガネでは意味がないので、コンタクトにしましょうと、同じことを繰り返すだけでした。車の免許は、なんとか更新出来たんですが、コンタクトは痛くて、よくて1時間、駄目な時は、5分ぐらいで、激しい痛みで、涙が、ボロボロ出てくる状態でした。

その後、何件か眼科に、行ってみましたが、どの眼科でも、メガネでは意味がない、ハードコンタクトに、しましょう、と同じことを、言われました、私がコンタクトは痛くて着けて、いられないと言っても徐々に慣れてくると言ってくるだけでした。そして当時は、近視を治す手術として最先端手術だったRK手術を受けようと思い、東京にある眼科に行きました。

事前に予約していたのに、他の患者さんのRK手術が始まったみたいで、2時間以上待たされた記憶があります。しばらくして、手の空いた、まだ新人らしき医者が私を診察しました。そして私の目を見て、「円錐角膜だな」と言われました。私はこの時、自分が円錐角膜だと、初めてしりました。

この新人の医者に色々、検査されたんですが、眼圧測定が非常に辛くてなかなか測定出来ないみたいで、目にエアーを、バシバシと10回以上打たれた覚えがあります。途中で涙がボロボロ出て来たのに、おかまいなしでした。そしてしばらくして、別室でRK手術をしていた医院長が手術が終わったらしく、私の居る診察室へやってきました。

新人の医者が医院長に私を指差して、「この人、円錐角膜」と言うと、医院長が「円錐角膜はRKは出来ないよ」と私に言ってきました。医院長は手術が終わったばかりで、だいぶ疲れた様子でした。診察室の椅子に座ると。新人の医者から、それまでしていた、検査内容が書かれた診察のカルテを受け取り、医院長がカルテを指差しなから「お前こんな検査してどうする気だ」と言いました。

新人の医者が「症状を把握して、その人に一番あった適切な処置や処方箋をだすために…」と言うと、医院長が「適切な処置て、お前RKについて聞きに来てるんだぞ、お前、1回あたりの診察行為の限度をとっくに超えてるじゃないか、過剰診察じゃないか」と患者の私が目の前に居るにもかかわらず、非常に取り乱した様子でした。

さらに、カルテを指差し医院長が「お前この眼圧測定のエアー回数何だ?」すると新人の医者が「エアーを打った回数です」と言うと、医院長が「お前エアーの圧力マックスにしてこんなのエアー当てたのか、お前角膜、破裂させるきか」と非常に、取り乱していました。新人の医者が「なかなか測定出来なかっので…」と言うと医院長が「だったら、さっさと諦めろよ、お前、一体何をやってるんだ」と、かなり動揺しました。

ここで、私が非常に気になっていたので「あの〜円錐角膜てなんですか?」と聞くと、新人の医者が「角膜が前に突き出てくる症状、今まで病院で聞いたこと無いの?」と言いました。私が「無いです」と言うと、新人の医者は「コンタクト作った時に言われなかっの?」と言い、私が「無いです、初めて聞きました」と言うと、新人の医者の隣りに座っていた医院長が小さな声で、新人の医者に「円錐角膜は告知はしない、告知するには、円錐角膜に対する対応がちゃんと出来る病院か、そういった病院をちゃんと紹介しないといけない。」と言ってました。

医院長は私には、聞こえない様に言ってるつもりですが、ハッキリと聞こえていました、そして医院長が新人の医者に「お前ちょっとこいと肩をつかみ、患者の私をほったらかして、奥の部屋にいってしまいました。しばらくして新人の医者が戻って来て「先生に変わってもらうから、と言って奥に引っ込み医院長が中に入って来ました。

医院長は何事もなかったかの様に、診察を再開しました。この時、医院長はカルテに書かれてる部分をボールペンで黒く塗り潰してました、この時は何をしているのか、わからなかったのですが、後から考えると過剰診察していた部分を塗り潰していた様な気がします。そして医院長が私に円錐角膜はRKは出来ないからと言って来ました。

私が、どうすればいいんですか?と言うと、非常に邪魔そうな表情で角膜移植と言ってきました。そしてコンタクトを作って郵送するけどと言ってきました。私はろくにコンタクトも合わしてもないのに、この人は一体何を言ってるんだ?と思い、当然、断りました。私が断ると医院長は、露骨に、邪魔そうな表情で、なんにしても、円錐角膜はRK出来ないからと同じ事を言ってきて、早く帰ってくれと言わんばかりの態度をされましので、これで帰ることにしました。

会計の時、診察代が当時、自己負担が1割の時代だったのですが、3千数百円を取らて、かなり高いなと思いながらも、おとなしく払うしかありませんでした。後で知ったんですが、この金額は1回の診察料の限度額いっぱいの金額でした。まだ開業したばかりの病院とはいえ非常に酷い対応でした。病院名を公表したい気分ですがここでは、止めておきます。

最近ネットで検索してみたら立派なホームページができてました。しかしこの病院に来たおかげで、自分が円錐角膜だと知りました。そして円錐角膜は簡単には告知してはいけない事を知りました、それまで行ってきた病院がなんで円錐角膜だと言わなかったのか、この時ようやくわかりました。

それからは、地元のコンタクト専門店等で何回かコンタクトを作ったのですが、激しい痛みでとても着けていられませんでした。しばらく半分、障害者のような、辛い生活の日々が続きました。そして2000年の時、私の住んで居る愛知県の隣りの静岡の浜松市に大きな眼科の病院ができたことを知りました。

試しに行ってみると、この病院で自分が円錐角膜だと初めてまともに言われて、少し感動しました。ここは角膜移植もやってる病院で、非常に丁寧に色々説明してくれました。この病院でレインボーの円錐角膜専用のコンタクトを作ってもらいました。私はこの病院で円錐角膜専用のコンタクトが有る事を初めて知りました。

今までの一般のコンタクトとは比べ物にならないくらい痛みがなくなり、調子がいいと半日は楽に着けられます。もっと早くこんなに素晴らしいコンタクトを知っていたら、自分の人生も随分、違ってたなと思いました。そして現在、角膜リングに非常に興味があります。早く私の住んで居る愛知の病院でこの手術を始める病院ができることを願っています。

以上が私の体験談です。なんとか、分かり易くまとめてみました。同じ病気で苦労している皆さんの生活に何か参考になってくれれば嬉しく思います。

【送信日時 2007年09月10日】


  72:沙織さん

【年齢:14歳、職業:学生、性別:女性、住所:兵庫県】

私は5月あたりに体育の授業でボールが目にぶつかって、使用していたコンタクトが破れたことに気付き、眼科に行って色々な検査をしてもらった時に「円錐角膜」だということが判明しました。円錐角膜だということを聞いた時は、さっぱりどんな病気なのか分かりませんでした。でも先生の話を聞いていて、角膜移植の話などで正直ショックを受けました。

私は小4くらいから眼鏡をかけていて、中学に上がると同時にコンタクトにしたのですが、その時にはすでに(元々?)すごく視力が悪かったので、これからもどんどん視力が落ちてくるかもしれないと聞いてすごく不安になりました。そして、今はハードコンタクトで矯正しているのですが、いつ進行してくるのかもわからないし、角膜移植も正直怖いです。

【送信日時 2006年08月08日】


  71:さぬきうどんさん

【年齢:24歳、職業:フリーター、性別:男性、住所:岐阜県】

目がボヤけてきたのが、14歳の時(中2)の時でした。正直、その頃軽い貧血とかあったので、それかなぁと思ってたんですけど、眼科へ行ってみたら、「円錐角膜です」と言われました。眼鏡での矯正で、0.1しか見えませんでした。この後、放っておいたら0.09と下がってしまい、コンタクトレンズ(以下CL)の装用での矯正を奨められましたが、あまりの激痛に悩まされ、1週間足らずでCLの装着は諦めてしまいました。

そして20歳の時に名古屋の某病院で、円錐角膜の病気に詳しい先生に出逢います。元は近くの眼科の紹介で名古屋にきましたが…。右眼(円錐角膜の方)は視力が出ないので、円錐角膜用のHCL(ローズK)を最初に使用されました。そしたら1週間はピントが合って、1.2くらいまで上がりました。その時は嬉しかったんですが、結局9ヶ月ぐらいでまた激痛が走り、22歳でビギーバック法を受けました。

さすがに辛かったです。ソフトコンタクトレンズの上からHCLを乗せるのですから。でもやっぱり装着してると、すごい激痛が走り(一種のアレルギーで)どうしても眼鏡の矯正で視力を求めたかったので、23歳の1月になり、角膜移植を望みました。移植後、矯正して右眼0.6までいきましたが、思うように視力がどんどんと下がっていきました。

先生が言うには「角膜も綺麗です」と言われ正常でした。少しは安心しました。眼鏡はコンタクトレンズと思うと楽です。眼鏡での矯正をしてみました。何度も糸のたぐいを調整したりして、きつかったです。それとHCLで一回矯正したんですが、矯正しても眼鏡と同じで、0.4となっていたので驚きました。でも眼鏡では両目0.9出てるのですごく快適です。

移植手術の話をしますが、瞳孔を開く為の目薬と点滴を手術前にして、2時間後、手術室に入りました。麻酔が少しチクッとしましたが、後は全然痛くありませんでした。恐怖も無かったです。2週間で退院して、1週間後ごとに診察を受けに行ってました。実は現在、左眼も円錐角膜で、進行は止まっているんですが、眼鏡での矯正も可能です。

左眼0.8まで見えました。左眼だけ何とか無事です。車の免許は大丈夫そうで安心しました。それと最後になりましたが、私は一番感謝してるのが、これを読んでいる読者と、角膜提供者とその家族です。本当に感謝しています。皆さんの参考になれればと思って、体験談を書きました。

【送信日時 2006年04月04日】




はじめに / 作者症状 / リンク集


ライン

Topへ戻る